吉野雛は桜樹彫と土雛の2種類が作られています。
吉野雛の由来は、大海人王子(天武天皇)が吉野の離宮においでになったころ、吉野の豪族が桜の樹を多く植えさせ、その樹で人形を制作して献上したのが始まりと言われています。
素朴な桜樹彫り吉野雛は、守り雛として手にする者の心をほっとさせ、今でも多くの人に愛されています。
吉野雛は桜樹彫と土雛の2種類が作られています。
吉野雛の由来は、大海人王子(天武天皇)が吉野の離宮においでになったころ、吉野の豪族が桜の樹を多く植えさせ、その樹で人形を制作して献上したのが始まりと言われています。
素朴な桜樹彫り吉野雛は、守り雛として手にする者の心をほっとさせ、今でも多くの人に愛されています。
秋田市内には、数人の人形師がおり、それぞれ特色のある「なまはげ人形」を作っています。守田紀元さん(寺内字後城五十二歳)のなまはげ人形は中でも特色ある一つ。守田さんの人形は、お面から手足までその全部を寺内の土で作っており、素焼きした上に、色づけや飾りつけしたふぜいは素朴なうちにも色彩感の豊かなものです。守田さんは九谷焼きなど陶芸の本場石川県の出身です。
本来は瓦製造を営んでおりその関係で昭和十八年ごろ秋田市に来ています。人形は昭和三十八年ごろから作り始めており、なまはげのほか竿灯人形などがあり、独自の工夫を加えています。
鳴子こけしは、首を回すとキイキイと鳴ることで有名ですが、これは頭部を胴の部分にはめ込む、独特の技法が用いられているからです。胴は肩の部分が盛りあがり、中央部に向かって少し細くなり、裾に向かって再び広がった安定感のあるシルエット。模様は、「重ね菊」といって、横から見た菊の姿を重ねて描くものが代表的で、次いで、正面から見た大輪の菊を胴の下部に描く「菱菊」もよく見られます。また、楓や牡丹なども好んで描かれますが、いずれも他の系統と比べてかなり写実的です。
●姫だるま(愛媛県)(大分県)
姫だるまは、昔神功皇后が道後温泉に御滞在になり、そこで御懐妊され、その後筑前国において応神天皇を出産され、この帝の真紅のまわた包みの可憐な幼児を記念して、追想し奉り作られたといわれています。
細い白おもての顔、赤いおちょぼ口が特徴の張子の人形。男だるまと違い、女だるまや姫だるまはいろいろな表情があって楽しいです。元旦の夜明け、村の若者たちが、このだるまを家々に投げ込んで歩き、2日後にそれらの家から祝儀を集めて酒盛りをする風習がありました。「福だるま」とも呼ばれています。
越後の三角ダルマは、その独特の形から全国のダルマ玩具の中でも異色の存在だ。かつては高田、柏崎、見附今町など各地で作られていたらしい。
制作しているのは阿賀野市山口にある今井家、通称「鳩屋」。現在、7代目伝三氏が当主である。初代今井伝十郎が人形作りを始めたのは、文化年間(1806)という。山口人形は京都伏見人形の流れを汲む土人形で、粘土で型を作って丸一日焼き、漆を混ぜた絵の具を塗ったもの。時代の流れにつれ色彩に工夫がこらされ、素朴な中にも郷土色の濃い芸術作品として、生まれ変わってきました。
6代目徳四郎のとき、戦争などの理由で製作が中断されたが、昭和31年に地元水原町(当時)の力強い支援を受けて、製作を再開し三角ダルマの名が天下に響くこととなりました。
日本の独楽は中国、朝鮮半島を通じて平安時代前に伝来し、主に宮中などで楽しまれたようです。南北朝時代には全国的に独楽廻しの勝負が行われ、豊臣秀吉の全国統一のころ、鉄芯を使用した博多独楽が作られています。
この博多独楽が江戸時代に入ると全国的な人気を巻き起こします。そして独楽を使っての賭け事が大流行し、幕府は禁止令を何度も発令しました。この博多独楽は値段も高価で製作技術も難しいため、大衆の手に入りづらかったので、木をペースに鉄芯を打ちつけたものが全国各地で広く作られ始められました。それまで鉈などを使って原始的に作られていたこの地方の独楽も、この頃に原型が生まれたものと思われます。
佐世保独楽の形状はラッキョウ型と呼ばれており、材質はブナ科のマテバシイという広葉樹です。上部には色鮮やかな色彩が施されています。色彩については中国「陰陽五行説」に影響されて、青(緑)、赤、黄、白(生地の色)、黒の5色で構成されています。独楽の先端には、剣と呼ばれる独特の鋭い鉄が打ち込まれています。